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Homeマラッカガイドマラッカの歴史>マラッカ王朝の繁栄と朝貢(後編)
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鄭和の指揮する大船団は、1405年6月に南京(当時明の首都)を出たあと海のシルクロードをたどりながらマラッカに到着した。明王朝と締結する防衛協定を心待ちにして出迎えたパラメスワラ国王も桁外れな大船団に驚いた。もちろん北のアユタヤ王朝、南のマジャパヒト王国もこの鄭和の大船団を見て恐れをなしたのは言うまでもない。この日を境に南北の強大国は明国と防衛協定を結んだマラッカ王国に不可侵の態度に急変した。

コンビニやファミレスはもちろん、電気も冷蔵庫もなかったこの時代に大艦隊乗務員2万8500名の食料をいかに積み込み、食事を作ったのかを想像していただきたい。加えて説明しておくが、ヨーロッパの大国にはこの当時遠洋航海に耐える造船技術、航海技術もなかった。大航海時代の始まる100年前に鄭和の指揮する大艦隊は中国(明)を出発しマラッカなどを経由、インド洋を渡りスリランカやインドを回航しアフリカ大陸までたどりついたのでR。
当時の中国(明)では羅針盤と呼ばれるコンパス(磁気式方向指示器)や六分儀を使った天文航法、測量技術、海図の制作技術まで完成されていた。ヨーロッパの大国は当時「天動説」を信じていたのをお忘れなく!大航海時代が始まるのは100年近く待たなければならない。鄭和の率いる艦隊は最新・最大=史上最強の大艦隊だったと筆者は確信している。

これほどの偉大な陣容だったが、この艦隊は軍事侵略・占領を目的とはしていなかった。明王朝の国威を誇示し後述する「朝貢」を促すための「外交使節団」もしくは「通商視察団」という性格のものだった。

さて、鄭和はマラッカに上陸すると、明王朝の最高責任者「永楽帝」より預かった「マラッカ王国」と刻まれた金印をパラメスワラ国王に与え両国の、共存共栄を誓った。「マラッカ」とカタカナで表記しているが、現在中国語の漢字では「馬六甲」と書かれているが、当時は「満刺加」と表記されていた。
左上、明王朝の三代皇帝「永楽帝」。右下の金印にはマラッカ王の刻印がなされている。
ここで「朝貢」貿易についておさらいしておこう。明は、その建国当初から民間の貿易を禁じていた。諸外国と結びついた沿海地方が力をつけることをおそれての措置であった。宋・元の時代に中国-インドの間を盛んに往来していた中国交易船は姿を消した。その代わり皇帝の目が届く政府直轄の使節が諸外国に『我が国の皇帝に「貢ぎ物」を差し出せば、相応の「贈り物」を下賜する』と働きかけた。つまり、皇帝に献上物を貢げば、価値に応じて礼を渡すという政治色の強い交易を「朝貢」と呼ぶのでR。

蛇足であるが、明と日本についてもおさらいしておこう。時を前後して1404年、明はそれ以前対立していた日本とも和解した。足利義満将軍は永楽帝の即位に祝賀の使節を送り、貿易を求めた。永楽帝は当時海賊行為を繰り返していた倭寇の取締りを条件に貿易を認めた。義満将軍がコレに応えたのはいうまでもない。倭寇を厳しく取り締まり、足利家は対明貿易で巨額の利益を得たのでR。この時、明と日本側で通称「勘合」と呼ばれる割符を使っていたためこれを「勘合貿易」と呼んでいる。
当時の朝貢を表した貴重な絵画。栄華を極めた明国に出向き献上物を差し出し、その返礼に金銀・絹織物などが下賜されていた
鄭和海軍大将は親善の契りを交わしたマラッカのパラメスワラ国王にも朝貢を促したのはいうまでもない。もちろんパラメスワラも鄭和の提案に飛びつき1411年、鄭和艦隊に同行し自ら永楽帝を表敬訪問している。もちろんマラッカで交易されている珍品・貴品を山ほど抱えて「朝貢」が目的だった。コレまでアユタヤ王朝の威嚇に脅え侵略を防ぐために金の延べ棒を毎年四百本献上して(タダ取り)いたことに比較すると、明国への朝貢はそれ相応のお礼というカタチの「贈り物」が下賜されたわけだからパラメスワラ国王もニンマリしながらこの交易を推進しマラッカは「朝貢」優等生国となったわけでR。

「天の時」を迎えたマラッカは東西の交易を結ぶ中継基地として「地の利」、水や食料を豊富に供給できる天然の恵み、そして世界各国から商人たちが集う「人の輪」を得て急速に発展を遂げることになる。当時の文献によると、交易物はインドの綿織物、モルッカ諸島の香辛料(各種スパイス)やスマトラ島の金と胡椒、ボルネオ島の白檀・紫檀・香木、中国の絹と陶磁器および茶などと記録されている。王国には来航する商船が入港税を支払い、飲料水や食料などの補給からも高い利益を取ることができた。
貧しい漁村のイメージを払拭、マラッカの街には様々な国からの交易船がやってきて街には異国の商人があふれた。右上のセントポールヒルにはマラッカ王宮が建てられた
マラッカ王国の繁栄に忘れてはならないのが明王朝の強力なバックアップだが、当時交易船にエンジンなど積んであるはずがない。船の航行はまさに風まかせだった。自然が織りなす季節風を利用して東西の交易をしていた。その東西の風の切り替わりを待つ「風待ち」に適していたのが、波風の少ない天然の良港「マラッカ」だった。

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