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マラッカの市内中心部に都市開発から逃れ、緑の自然が残る丘陵地がある。その名はブキッ・チナ。語源はマレー語のBukit(丘)と、China(チャイナ:中国)、つまり「中国の丘」という意味である。21世紀の現在では中国の国外では世界最大の中国人墓地とされている。

しかし今から600年前、15世紀この丘はマラッカ王国の北東の防守する重要な要塞だったと同時に、同盟国「明王朝」(現在の中国)からの大切なお客さまを受け入れる迎賓館の建設も進められていた。
マラッカ市内中心部にやたら大きく緑が残っている丘陵地がある。それが今回のテーマ国際政略結婚を受け入れたブキッ・チナとよばれる「中国人の丘」である
当時、明王朝は自国の朝貢交易を安定させるため、アジアからアラブ(ヨーロッパへの玄関)にかけて海のシルクロード航路確立に力を注いでいた。朝貢国として優等生であるマラッカ王国はその交易による利益だけではなく、季節風の風待ちに適した最重要海洋基地でもあった。マラッカ王朝と結んでいる同盟をさらに強固なモノにするため明王朝は血縁を求めた。

「我が娘をマラッカ王朝の王様に嫁がせよ」と指令が下り、明皇室内からお姫様の候補が選ばれた。彼女の名は「リーポー妃」。1451年にご成婚されたという説もあるが、信頼できる記録によれば明王朝、永楽帝の子孫である「リーポー妃」は、1417年に大遠征の命を受けアフリカまで到達した鄭和艦隊の第五回遠征に随行しマラッカに立ち寄っている。この一時寄港の年代と、王妃の年代を照らし合わせると1451年ご成婚説は否定せざるを得ない。というわけで当サイトではマレーシアの高等教育に使われている歴史の教科書に記載されている1426年ご成婚説を採用している。

永楽帝のお気に入りだった海軍大将「鄭和」は、リーポー皇太子妃をマラッカまで侍衛し後にマラッカ王朝四代目の「マンソーシャー皇太子」(Mansor Syah)のお妃さまとしてお輿入れにも随行した。若き日の皇太子は既に三人の妻を娶っていたが、イスラムの教えに則り四人目の妻としてありがたく受け入れた。遠く明王朝から遙かマラッカまで嫁入りに来たリーポーをいたく気に入り、寵愛したと伝えられている。
海を渡ってやってきたお妃さま「ハン・リー・ポー」。身のまわりのお世話をする従者もその数600名。多民族国家マレーシアの礎ともいえる国際結婚だった
王がいかにこのお妃を愛したかを示すエピソードも残っている。マレー語で王妃を意味する「ハン(Hang)」というタイトルを与え「ハン・リー・ポー」と名前を付けた。そして、王妃のお世話役として随行した600名の従者のためにブキッ・チナの丘陵地に迎賓館を建設し、王妃とともに暮らせる住居を提供した。そして、ノドを潤す水源の確保にと井戸も掘らせた。

マンソーシャー国王が掘削を命じた井戸なので「ソルタン(国王)の井戸」と称するガイドブックの記述も見られるが、地元マラッカでは「ハン・リー・ポーの井戸」の呼び名で親しまれている。現在この井戸はマラッカを訪れる観光客に開放されているのでぜひ見に行っていただきたい。ブキッ・チナの丘陵地の麓にある三宝亭という仏教寺院のすぐ右手にある。高さ2メートルの白壁で囲まれているが、コレには隠されたワケがある。

後の大航海時代に香辛料貿易による利益を求めマラッカを攻撃し駆逐・占領したポルトガル。1511年に王宮を焼き払われマラッカ王は南の地、ジョホールへ逃げ込んだ。王国を奪われた元マラッカ王国兵士たちは、虎視眈々と復讐の潮時を待ち受けていた。そして、ポルトガル兵士がこのハン・リー・ポーの井戸水を飲料に供していたのをめざとく確認し、井戸に毒物を流し込んだ。

バッタバッタと倒れるポルトガル兵士を見て、元マラッカ王国兵士たちが狂喜乱舞したかどうかは定かではない。しかし熱心なイスラム教徒だった彼らがコーラン(イスラム教典)に書かれている「目には目を・・・」と復讐を遂げたことに喜びを隠せなかったのは間違いない。

そして、時代はまた新しい支配者を送り込んできた。1641年オランダがポルトガルを駆逐し、統治をはじめた。この直後に、ジョホール王国(元マラッカ王朝の末裔)とマラッカ奪還のために同盟を結んだポルトガル人の子孫たちが、オランダ軍兵士が飲料水として使っていたこの井戸にまたもや「毒」を流し込んだ。

飲料水に供される「水源」の治安維持の重要性に気づいたオランダ軍は、さっそくこの井戸の周りに白壁を建築し不幸な失敗を繰り返さぬよう防御を固めた。おかげで、皮肉なことにその後の支配者であるイギリス軍兵士が飲料水に流し込まれた毒で命を落とすことはなかったのでR。
霊験あらたかなる「ハン・リー・ポーの井戸」。この井戸には様々なエピソードがある。ブキッ・チナの麓にある三宝亭仏教寺院のすぐ右手にあるのでぜひ立ち寄ってみよう
この井戸は霊験あらたかなることでも知られている。1990年にマラッカを襲った大干ばつ。日照りが異常に続き雨が降らず、東西7q、南北4qもある巨大なマラッカ貯水湖も水が底をついた時にもハン・リー・ポーの井戸水だけは枯れることがなかった。市民はこの井戸に集い、皆で分け与えながら枯渇をしのいだ。

そしてマラッカ版「トレビの泉」的な伝承もある。実際にコップに井戸水を注いでみると目にすることができるのだが表面張力が非常に強い水質を保っている。コップになみなみ注いでも、プラス3〜5ミリ盛り上がっても溢れないのでR。そしてこの水を飲んだ旅人は「必ずマラッカを再訪するコトになる」と言い伝えられている。ホントかな?と疑る方は、ぜひご自身でマラッカまで来て試していただきたい。(^^;)

話を元に戻そう。マラッカ王国は明王朝からお妃さまを得て、その同盟の絆をさらに強く締結した。現代風に言いかえれば国際政略結婚、血縁による契りによって謀反を防ぎ両国の親善を深めたのでR。多民族国家であるマレーシアの礎ともいえる国際結婚でもあった。

付け加えておくが、このハンリーポー皇太子妃に随行したお世話役として600名の宮廷召使いがマラッカに定着して現在に続く「ババ・ニョニャ民族」の祖となったわけではない。600名の中国からの移民として現地の人たちと結ばれたカップルを否定することはできないが、ババ・ニョニャ民族とは中国から移民してきたハイクラスなビジネスマン(男性)が現地でマレー人女性と結婚し、生まれてきた混血児である男の子が「ババ」、女の子が「ニョニャ」と呼ばれている。宗教的には、イスラム教ではなく父親である中国人が信じている仏教を信仰している家庭が多い。

宮廷召使いとして随行した中国人女性が、マレー人男性と結婚した場合、生まれてきた混血による子供を「ババ・ニョニャ」とは呼ばない。もちろん男性召使いも随行してきたのだが、彼らは宮殿に仕える際に男生殖器を処置した宦官であったワケだから子孫を残すことはできない。つまり、ハンリーポー皇太子妃に随行した600名の宮廷召使いたちはババニョニャ民族の祖先とはなり得ないのでR。

ハンリーポーに随行した者たちがババ・ニョニャ民族を形成したと日本語で書かれている説も見かけるが、まったくトンチンカンな誤解としか言いようがない。日本を代表する旅行ガイドブックにもババ・ニョニャ民族について誤解も甚だしい記述がなされていることも付け加えておこう。出し惜しみするわけではないが本章において「ババ・ニョニャ民族」については時代的にはずいぶん後、英国植民地時代に書き記す予定である。

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