プラナカンという言葉を間違えて使う日本のマスコミ
ニョニャ料理の解説をする前に、ババニョニャ民族、プラナカンという言葉の意味を解説しておきましょう。ババニョニャ民族とは、中華系移民男性が19世紀後半までに現地のマレーシア人女性と婚姻し、産まれてきた混血の男の子をババ、女の子をニョニャと呼んでいたのがルーツです。これらの子孫達を地元では「ババニョニャ民族」と呼ぶようになりました。
ババニョニャ民族の特徴は、家族の宗教(仏教が多い)や年長者を敬う儒教的な教えなどは、中国系父方祖先の精神を受け継ぎ、言語や普段の食生活、女子の服装などはマレー系母方祖先から影響を受けています。
こうしたミックスカルチャーの具体例を紹介しておきましょう。ババニョニャ3世代あたりになると、中国語での会話はできるけど、読み書きが苦手で英語とマレー語が得意となり、マレーシアン華人の愛読する漢字の新聞は読まず(漢字教育を受けていないので読めない)ため英字紙を購読します。
また、食事の嗜好はマレー式のスパイシーな料理が好みとなり、中華料理の箸が使えない人が多くなります。カレーやぶっかけごはん(ナシチャンプル)を右手で食べたり、中華料理を食べる時も、フォークとスプーンで食べるのが特徴となっています。(*ナイフとフォークではありません。ナイフの代わりにスプーンを使います)
さて、表題の件について解説いたします。ババニョニャを包括する言葉としてプラナカン(Peranakan)という単語が日本のメディアや雑誌、イベントで使われるようになっていますが、厳密に言えば誤った使い方であり間違いなのです。
プラナカン(Peranakan)とはマレー語で「ここで生まれた」を意味し、英語では "Born here" と訳されます。19世紀末頃までに各国からマレーシアに移住してきた男性(中華系移民、インド系移民が多く古くはポルトガル人の子孫もいます)が、現地のマレー人女性と結婚し、生まれてきた混血の子孫を総称してプラナカンと呼びます。
日本のマスコミ、雑誌や旅行誌で「プラナカン」イコール中華系移民とマレー人女性の混血児「ババ・ニョニャ」を同一視して捉える風潮がありますがそれは、間違いなのです。ババニョニャ民族を形容するために「プラナカン」という単語を使いたいのであれば「中華系プラナカン」もしくは「プラナカン・チャイニーズ」というのが正しい使い方なのです。
インド系プラナカンのチッティとママッとは?
「プラナカン」とは、マレー語で「ここで生まれた」を意味する単語であることを冒頭で解説しましたが、プラナカンの血統にはインド系移民男性の「ママッ」や「チッティ」、ヨーロッパ系移民男性の「ユーラシアン」など、さまざまなプラナカンが存在します。
多くは、マレーシアが英国領だった時代に、イギリス人が経営する紅茶畑や天然ゴム農園で働くインド人労働者がインドから移民させられてきました。現地のマレーシア人女性と婚姻したことにより、インド系プラナカンが生まれました。
インド系移民のうち、ヒンドゥー教徒のプラナカンを「チッティ」と呼びイスラム教徒のプラナカンを「ママッ」と呼び分けています。
初代植民地支配者の子孫はユーラシアン
マラッカの市内中心部から南東にクルマで約5分の場所に、カンポン・ポルチギスと呼ばれるポルトガル村という場所があります。大航海時代の幕開け期の1511年にマラヤ王朝を武力で制圧した初代植民地支配者であるポルトガル人の子孫たちが暮らしています。
彼らは、キリスト教(カソリック派)の信仰を現代まで受け継ぎ、家族間では中世ポルトガル語を話しています。ポルトガル人男性と、現地マレー人女性の婚姻による子孫をマラッカではユーロ+アジアの意味でユーラシアン(ユーロ/アシアン)と呼んでいます。
もちろん、彼らもまたプラナカンなのです。
ニョニャ料理(プラナカン料理)の起源とルーツ
さて、ここからが本題となります。ニョニャ料理(中華系プラナカン料理)とは父系祖の中華料理の食材、調理器具、食器を使い、母系祖のマレー人家庭に伝わる香辛料や味付けでアレンジした料理をさします。
見た目は、中華料理なのですが食べてみるとスパイシーでエスニックな感じがするのです。激辛ともいえる香辛料を多用した味付けが特徴といえるでしょう。箸を使って食べるのではなく、右手を使って食べる習慣や、スプーンとフォークで食べるスタイルが基本となります。
こうした、ババニョニャ民族(中華系プラナカン)の家庭に伝わっているのがニョニャ料理(プラナカン料理)というわけです。
見た目や食材は父方祖先の中華料理だけど、味付けは母方祖先のマレー料理でスパイシー。スパイシーでエスニックな料理なんだけど、和食っぽい(中華)味付けの料理なのです。日本人にとって、初めて食べてもどこか懐かしいのがニョニャ料理の特徴といえるでしょう。
消えゆくババニョニャ民族
繰り返しますが、ババニョニャ民族の定義では家庭の宗教や儒教などの精神的なものは父系祖先から、言語、食習慣や生活様式は母方祖先であることとされています。
しかし20世紀前半以降に中華系男性とマレー系女性が婚姻する以前にイスラム教に改宗せざるを得ない現状となっています。
21世紀の現在、中国人移民男性の子孫と、マレー人女性の婚姻は認められていますが、結婚前に男性は家庭に伝わる宗教と決別し、コーランを読んで理解してイスラム教徒へ改宗せねばなりません。したがって混血の子孫が生まれてもババニョニャとは呼べなくなっています。
ニョニャ料理のルーツを築いたのは、プラナカンの中でも "Straits Chinese" (海峡で生まれた華人)とも呼ばれる中華系プラナカン「ババ・ニョニャ」。父系の中華料理の食材を母系のマレー人女性が香辛料を調理のスパイスに取り入れた、見た目が中華で味がマレー的な料理がニョニャ料理と呼ばれています。
※本章ではプラナカンをババニョニャ民族を意味する総称として使っています。混血を意味する「ここで生まれた」という本来のマレー語とは違う解釈です。プラナカン料理とはニョニャ料理として扱っています。つまり、ニョニャ料理とはプラナカン料理の語源でもあります。
ババニョニャ民族のおさらい
ババ・ニョニャとは、15世紀以降20世紀初頭までにマレーシアに移住してきた華人男性と現地のマレー人との婚姻により誕生した混血の子孫、中華系プラナカン。生まれてきた男の子を「ババ」、女の子を「ニョニャ」と呼ぶことから「ババ・ニョニャ民族」と名付けられました。
19世紀後半の産業革命により、蒸気汽船が就航するまで、海のシルクロードで東西交易を担っていたのは帆船です。帆船の行き来にはモンスーンと呼ばれる季節風が影響されました。
風待ちに適した、マレーシアの古都マラッカやペナン、シンガポールは港湾都市として、多くの移民を受け入れ発展したのです。中華系プラナカンが海峡植民地に多いのは、こうした歴史的背景につながっているのです。
精神的な面、例えば祖先や年長者に対して敬意をはらう儒教的な考え方や、仏教や道教などの宗教・婚姻・葬儀・祭事は、華人としてのアイデンティティーを子孫に伝えるプラナカンは、父方である華人の習慣を代々継承しています。
また、日常的な会話や、食習慣や生活様式は母方であるマレー人の習慣を身につけているのです。その生活習慣は、華人の妻帯者を持つ移民華人(チャイニーズマレーシアン)の子孫たちとは大きく異なります。
21世紀の現在マレーシアにおいて中華系移民男性がマレー人女性と婚姻する際には、男性側の宗教信仰がイスラム教でなければなりません。したがって、仏教や道教を受け継いできた祖先の信仰を棄教し、イスラム教の配偶者と同じイスラムを信仰することになります。
両家共にババニョニャ民族の子孫達、どうしの婚姻では新しいババニョニャファミリーの誕生といえますが、中華系移民男性と現地マレー人女性の混血による新しいババニョニャ民族の家族が生まれることはなくなってしまいました。